日本文化の中の日本画

文化とは、その地域に伝えられた生きていく為の知恵の伝承です。
衣食住に始まり人を束ねる言葉や組織、宗教や医術、遊びやゆとりです。 
日本の文化に一番影響しているのは、やはり中国仏教でしょう。
宗教は、国家以上に規律や戒律が厳しく、洗練されて行ったのでしょう。
集団生活の中では、人は互いに支え合い 約束事を守り、秩序を作ります。
弱い者にとって導いてくれるものやすがれるものを信じるしか有りません。
大陸から海を渡り、自己保存と種族維持を目的に、宗教や政治、農工業、研ぎ澄まされた技術、備蓄、倹約、教えが伝わって来ました。

この島国の中で日本独自の文化として歴史の中より生れてきたのです。

 

日本画は人に自分たちの意思を伝える手段として始ったと思われます。
古跡や墳墓から発見されたものや、伝えられる文献や書物の中から、神として、想像の動物として、又事実を残そうとしたのでしょう。
そこに本来の癒しや和み、そして諌めが有り感動があります。
何かに固執してしつこくならず、意表をついて奇抜にならず、さらりと一番伝えたいことを描いているのです。


虚心坦懐という言葉より、竹のように素直な心で絵画を学びましょう、という画塾です。

初代  太田 秋亭 (湘山)

本名 太田 贏太郎 (カチタロウ)
長崎にて明治7年に生まれる。
清国より来たる文人画家 長崎派の祖 沈南蘋(ナンピン)の影響を受け、南宗画を習う。 岡田篁所(漢学)、や 崎陽守山湖風(コフウ)に師事した。
30代になって名古屋に移り 東海美術協会審査員、中央南宋画会理事 及び会長を就任。
私塾を開き 多くの弟子を養成し、南画家として名を高めた。
37歳のとき神戸に移り、野村の黒川様、三菱の三木様を始め、財界や外国人の方々にも指導した。

画号を、虚心洞 太田秋亭 又は 秋亭湘山人などを好んで用いた。
東京に移り 昭和11年 62歳没

 

二代  太田 秋亭 (湘蘭)

本名 太田 滝世 (タキセ)
長崎にて明治27年生まれる。
厳しい義兄の教えの下 画道にひたすら精進され、淡雅雄健にして先師の長所を学び得ました。
昭和13年より、細川侯爵母堂、本野愛国婦人会長、松平信子宮内大臣夫人らを中心に、画会、虚心会を主宰し文化外交に尽力しました。

外務省文化事業部の仕事を絵画によって援助し、戦前戦後に亘り親善外交に尽くしました。
又、秩父宮 梨元宮 皇太后様ともご親交が有り、頭山満翁 川島浪速先生、寒川陽光先生等にも賛辞を頂きました。
明治神宮有馬良橘宮司や靖国神社等へ絵画献納 
鎌倉建長寺 菅原時保禅師管長や、圓覺寺管長 朝比奈宗源禅師、小笠原長生子爵等とも交流がありました。

厳格で崇高な人格でしたが 指導は懇切丁寧で門下生は画道を通して、日本文化の精神的部分までも常に精進熟成されたことと思います。
平成5年 99歳没

 

三代 太田湘香(しょうこう)

太田家の三代目として昭和5年神戸に生まれる。本名 長谷川 三千子
二代 太田秋亭、堅山南風等に師事。

幼少の頃より 厳しく日本画を学び、外務省の文化事業部を通じて親善外交にも尽力致しました。
画塾 虚心会においても、南北画や大和絵、琳派等技法を取り入れ、卓越した技術を惜しまず広くその門人に開きました。外国の方々にも日本画の普及紹介に勤めております。

現在までに一万人以上の方々に墨絵、日本画をとおして日本の文化を伝え、毎年個展や描き初め会、写生旅行、ボランティア等、研鑽し創作活動にも力を注ぎました。

令和元年 11月没

 

四代 太田慧香(すいこう)

虚心洞太田秋亭四代目として1962年生まれる。

初代秋亭以来、文人墨客より代々画風を受け継ぎ、二代目秋亭、三代目湘香に師事。

 

スイス、アメリカへと留学し、海外見聞を広めると同時に、日本文化の大切さと素晴らしさを再確認し、帰国後 外国人を中心に墨絵、日本画の伝承に努める。

 

1982年、画号 太田慧香を継承。 

玉川高島屋、アメリカンクラブ、シティークラブ、インドネシア大使館などで指導活動、また自身の制作活動にいそしんでいる。

 

古典的技法を基礎に、現代風な新しい色彩感覚を織り交ぜ、大胆な構成力によって迫力のある作風を作り出し、又、繊細な水墨で感銘を与える作品をも作り出している。